うえに苦しんで、食べるものがほとんどなくなってしまった村を救おうと、立上がったある男がいました。ところが、その男が考えたのは、食べられるものを作ることではありませんでした。男はなぜそんなことをしたのでしょう?そして何をつくったのでしょう?
読んでみよう

治兵衛(じへい)は、いまから約二百五十年前に、上遠田(かみとおだ)に生まれた。
四十さいになったころ、農作物が実らんで、大人も子どももうえに苦しんだことがあった。
みんなは近くの権現山(ごんげんさん)に登って、わらびの根をほってうえをしのいだちゅうんじゃ。
治兵衛は、なんとか村人たちを救い、村をゆたかにする方法はないかと思いなやんだ。そんな時、頭にひらめいたのが、たたみ表に使うい草をさいばいすることじゃった。い草は、治兵衛のそせんが代々住んでいた豊後(ぶんご)の国でさいばいしていた。治兵衛は、豊後の国からなえを求めて帰ると、自分の家の下手の浴(えき)に植えた。い草は、次第にはんしょくして、道行く人たちをおどろかせるほどに、村一面の地を青々とおおった。遠田の土地は、い草をさいばいするのにちょうどよかったんじゃ。
それからしばらくして、治兵衛は、備後(びんご)の国でもい草の生産がさかんに行なわれていることを知って、さっそく、なえを分けてもらおうと出かけていったんじゃが、ここではかんたんに手に入れることができなかった。だれでも持ち出してはいけないことになっていたんじゃ。
それでも、治兵衛は、村から村へ。「うえに苦しんでいる農民のために、一かぶのい草のなえを分けてください。」と、村の家々をかけめぐったんじゃ。そして、とうとうある家で、一かぶの苗を分けてもらうことができた。治兵衛は、この苗を、節をぬいた竹づつにこそっと入れると、竹のつえに見せかけて持ち帰ったんじゃ。遠いところを歩いてもどるんじゃけえ、苦労して苦労して、それでも村の人たちのことを思いながらもどったんじゃ。
備後のなえが、遠田の土地に一番よく合っていた。やがて、い草のさいばいは村の新しい産業となり、人々の明るい声がもどってきたということじゃ。
協力/益田の文化を育てる会 永見 勝徳(敬称略)
ポイント
それぞれの土地には、そこでよく育つ植物があります。一体どういう植物がその土地に合うのかを調べることが、それぞれの町や村が豊かになるためにとても大切なのです。








